宮本百合子の作品

 このごろ油絵具が大層高価になった。もと、ルフランのを買っていたひとが、買えなくなる有様である。小説を書くひとは、絵具代がいらないから仕合せですね、絵描きはその点辛いです。そういう話がよく出る。それは物を書くひとは、ペンとインクと原稿紙があれば事が足りると、一応いえるであろう。もしそのペン、インクがなければ鉛筆一本で足りさせることが出来る。原稿紙がなければ普通のノートで間に合わせられる。ひどい時には一枚ずつ質も色も形もちがう紙の上にだって書ける。私はそういう小説の原稿を見たことがある。『女工と農婦』という女のための雑誌がレーニングラードで出ていて、そこの編輯所を訪問したら、主任の女のひとが自分のテーブルの抽斗から、一束の黄色や白のバラバラの型の紙束に鉛筆で何か書いてあるものを見せてくれた。そして、「これが今、この雑誌で呼びものになっている長篇小説の原稿です。作者は四十五の女工ですよ」といった。
 私は十七、八の頃は、文房堂の原稿紙をつかった。それは二十四字詰かで、書いたものが印刷されるようになっても、普通二十字詰がつかわれることを知らずに、それをつかっていた。そしたら何かの折、誰かがそのことを教えてくれ、慾も出て、ずっと二十字詰を使うようになった。
 その時分から松屋のを使いはじめ、永年、そればかりをつかっていたら、二、三年前、体がひどく疲労したことがあって、その弱っている視力に松屋のダーク・ブルーの、どっちかというと堅い感じの枠が大変苦しく窮屈に感じられた。困った、といっていたら、友達が盛文堂という店の原稿紙を紹介してくれた。その中で、赤っぽいインクで刷ってある大判のが、枠の形も周囲の余白もたっぷりしていて、柔らかみもあり、気に入った。それを使って安心していたら、去年の煙草値上げ前後から紙質が急に悪くなった。元のと比べて見ると、枠の横もつまり、余白もせまくなり、判全体がほんのすこしずつ縮んでいる。私はいやな気がした。盛文堂では、この頃売込んだので質を悪くしたと思った。そのことを仲つぎしている若い人に話したら、その男も「ハア、そうですか。この分のは紙がわるくなっていると矢張りよそさんから苦情が出ております」と小頸を傾けた。二日ばかりして、また来ていうことには、「どうも弱りました。製紙会社が合同して王子へ独占になったような形なので、競争がなくなったもんですから、一般に紙質をわるくしてしまったんだそうです。同じ名や番号の紙でもやっぱり質は下って来ているんで、どうも……」と頸のうしろへ手を当てた。
 丸善の原稿紙は紙はよいが、型の小ささやインクの色などがアカデミックで、私たち向きの小説向きでない。きっと益々紙の質は、わるくなる世の中だろうと思っている。

 自動車工場「アモ」のデモは別の趣好だ。幾流もの横旗の上に小さい自動車が一台ゆれてくる。みんなの目の前でパラリとそれがひらく。
生産経済計画を百パーセントに!
 はすかいにそういう字を書いた大型自動車が出てくるという仕掛だ。
 デモが各々の職場で工場内の美術研究部を中心として、工夫をこらした飾りものを持ち出すばかりではない。今日赤い広場はみちがえるような光景である。
 普請中のレーニン廟の数町に渡る板がこいは、あでやかな壁画で被われている。
 集団農場の光景だ。
 果しない耕地にトラクターが進んでゆく。青葉の繁った木立ちのこっち側には集団牧場がみえる。楽し気な牛、馬、羊、年とった集団農場員が若いもの、孫のようなピオニェール等にかこまれて、働き、ラジオをきき、字をならっている。
 鉄橋がある。遠く水力電気発電所がみえる。穀物、家畜を積んだ貨車と、農具を満載した貨車とがすれちがった。
 都会だ。工場だ。都会の工業生産と、労働者との姿が巨大に素朴にかかれている。
 閲兵式につづいてデモはモスクワ全市のあらゆる街筋から、この赤い広場に流れこむ。
 日が暮れて、すべてのデモが解散した後も、ここはまだ一杯の人出である。レーニン廟の板がこいの壁画をめぐって、イルミネーションがともされた。
 有名な昔の首切台の中には、雲つくような労働者の群像が飾られている。
 強烈なアーク燈に照らされ、群像の上にひるがえる幾流もの赤旗は夜に燃える火のようだ。左手につづく国立物品販売所の正面には、イルミネーションで、
万国の労働者団結せよ!
と、書き出されている。

 そういう場合、そういう立場におかれた作家たちのいわずにいられないたくさんの感想を話しあった。
 正月になって幾日かして、近ごろ私が可哀想に思ってみたその写真がとられ、インタービューがされたのであった。
 さらにそれから幾日か経て、中野重治と私とは、内務省の係りの役人のところへ、事情をききに出かけた。外から入ると、トンネルのように長く真暗に思える省内の廊下に面した一つのドアをあけると、内部をかくすように大きい衝立が立っている。その衝立をまわって、多勢の係員のいるところから、また一つドアがあって、その中に課長が一人でいた。デスクにむかい、折目の立った整った身なりの四十がらみの人であった。
 中野重治が、訪問のわけを話した。作家としての生活権を奪われることは迷惑であることを話した。かりに、役人である人が、突然、無警告にクビになって、その朝から困らないだろうか。事情はまったくおなじであると、話した。課長は、けっして、生活権を奪おうなどと思ってしたことではないこと。第一、特定の人々を指名したわけではなかったのに、ジャーナリストの中の誰かが、漠然と暗示されたのでは編集上不安心で困ると、やかましくいって、役人側にリストを公表させたのだという説明であった。
「実際のことは、事務官があつかっていますから、ただいまこちらへ呼びます。どうか、よくおきき下さい。私は近く転任になりますので――」
 何年もおなじ系統の職業に従事してきたことが、短く苅った頭にも、書類挾みをもった手首の表情にもあらわれている事務官が、黒い背広をきて、私たちの入ったとは反対側のドアから入ってきた。課長と大同小異の説明をした。もし、書くもののどういうところが困るとわかれば、それらについてうちあわせてもよいと、中野重治がいった。
「いや、別に、どういう箇所がいけないという具体的なものでもないんでしょうが……ともかく、もうすでに、ある方は手紙をよこされて、御自分の立場を弁明してこられています。――そういう方にたいしては、こちらでも、至急考慮いたしますが――……」
 私たち二人の作家の訪問は、一回きりで、つぎに、保護観察所という、刑務所の出張所のような役所で、内務省の役人との懇談会があった。そのときも、作家の側からは、生活権のことが主張された。その点については、まだ当時の事情では内務省としても考慮しなければならないふうであった。丸一年半という重く苦しかった時を経て、私たちは、またそろそろ、作品発表ができるようになった。
 この昭和十三年の禁止の時は、当時まだ幾分の抵抗力と生気とを保っていたジャーナリズム、主として新聞が日本の文化全般の問題として、この暴圧をとりあげた。しかし、禁止のリストにのせられた作家・評論家たちの間に、統一された抗争は組み立てられなかった。ある種の人々が、さっそく、個人個人で、こっそりと役所へ連絡をつけ「自分として」問題の解決を急いだ。文芸家協会として、まとまった有効な抗議もされなかった。日本の文化は、もうすでに文化を守る生活力を失っていたのであった。