宮本百合子の作品2

 一九三三年の春、プロレタリア文化団体が壊滅させられた後、ファシズムに抗する人民戦線の問題、文学における能動精神がフランスから紹介されたが、近代の市民生活の歴史をもたず、封建保守の傾きのつよい当時の日本の作家の雰囲気の中には、いつも、こうむる弾圧は、左翼だからという考えかたに支配された。自身の文学を、左翼から、できるだけ隔離すれば、少くともこっちは、そして自分なんかは安全だ、という誤った測定がされていた。作家の中で、執筆禁止について、発言し、なにかの意味で正しくふれた人々は、ごく少数であった。ましてや、温和なチェホフが、壮年のゴーリキイを除名したアカデミーにたいして、自分がアカデミシャンであることを恥じると抗議したような、温和にして剛毅な文学の精神は、日本の当時に存在しなかったのである。
 十三年代に明瞭にあらわれた、この文化暴圧にたいする「こっちは」「自分なんかは」の考えかたが、窮極の現実において「こっち」の「純粋な文学性」をどんな目にあわせることになったか、また、自分なんかは、と測定した個々の人の文学の才能や人生への確信を、どんな過程で崩壊させていったかという事実を顧みると、惨澹たるものがある。
 野蛮な権力は、文学面で狙いをつけた一定の目標にむかって、ほとんど絶え間のない暴威をふるった。一人の人間の髪の毛をつかんで、ずっぷり水へ漬け、息絶えなんとすると、外気へ引きずり出して空気を吸わせ、いくらか生気をとりもどして動きだすと見るや、たちまち、また髪を掴んで水へもぐらせる、拷問そっくりの生活の思いをさせた。
 一九三二年の春から一九四五年十月までの十三年間に、日本の一作家たる私が、ともかく書いたものを発表できたのは、三年九ヵ月ほどであった。あとの九年という歳月は、拘禁生活か、あるいは十三年度の一年半、十六年一月から治安維持法撤廃までの執筆禁止の長い期間にあたっている。
 公衆の面前で、一定の人間を、これでもか、これでもか、というふうにあつかったことは、直接そういう目にあうものを極度に苦しめたばかりでなく、ある距離をもってそのぐるりをかこみ、その光景を目撃している、より多数の、より不安定な条件におかれているものの精神を毒することはおびただしかった。文学の領域において、作家の敏感性や個人主義の傾向は、この点で十二分に利用された。一九四一年(昭和十六年)の一月から、また、幾人かの作家・評論家が執筆禁止になった。三年前は、主として内務省がその仕事をやったものであったが、四一年には、情報局がこの抑圧の中心になった。噂では、けがらわしいリスト調製に無関係ではないと話される作家さえもあった。
 アメリカへの戦争準備を強行中の軍事力は専断のかぎりをつくした。情報局でこしらえたジャーナリストと役人との、執筆者リストのようなものを、そのころ偶然みたことがあった。それは、当時の輿論が、どんなにふみにじられたものであったかを証明した。ジャーナリストが、さまざまの意味から、執筆して欲しい作家をA・B・C級にわけた。そのA級が大部分、役人にいわせれば禁止A級に入れられていた。役人が執筆させたいAの方には、通俗的また軍国的文筆家が大多数を占めていた。

「愛と死」が、読むものの心にあたたかく自然に触れてゆくところをもった作品であることはよくわかる。武者小路実篤氏の独特な文体は、『白樺』へ作品がのりはじめた頃から既に三十年来読者にとって馴染ふかいものであり、しかもこの頃は、一方で益々単純化されて来ているとともに練れて光沢を帯びたようなところが出来ている。そのような文章で描き出されている「愛と死」の夏子の愛くるしさは躍如としているし、その愛らしい妹への野々村の情愛、夏子を愛する村岡の率直な情熱、思い設けない夏子の病死と死の悲しみにたえて行こうとする村岡の心持など、いかにもこの作者らしい一貫性で語られている。
 こういう文章のたちと、こういうテーマの扱い方の小説は、今日めいめいの青春を生きている読者たちにとって、『白樺』の頃武者小路氏の文学が周囲につたえた新しい脈動とはおのずから性質の違った親愛、わかりよさに通じるようなものとして受けいれられるのだろうと思う。
「愛と死」は、しかし、最後の一行まで読み終ると、この作品の世界の一種の美にかかわらず、私たちの心に何か深い疑問をよびさますものがある。そして、その疑問は、その単行本の後書きを読むと一層かき立てられる。「愛と死、之は誰もが一度は通らねばならない。人間が愛するものを持つことが出来ず、又愛するものが死んでも平気でいられるように出来ていたら、人生はうるおいのないものになるだろう。純粋にそれを味わい得ることは稀だ」その純粋に経験された場合として、愛らしい夏子と村岡と夏子の死が扱われているわけなのだが、今日の時々刻々に私たちの生に登場して来ている愛と死の課題の生々しさ、切実さ複雑さは、それが夏子を殺した自然と一つものでないというところにある。
 今日の心情は、その今日の性格において愛と死の問題をわが生の意義の上に悩み、感じ、知りたいと思っているのだと思う。この小説が後半まで書き進められたとき、作者の心魂に今日のその顔が迫ることはなかったのだろうか。愛と死の現実には、歴史が響き轟いているのである。
 武者小路氏はルオウの画がすきで、この画家が何処までも自分というものを横溢させてゆく精力を愛している。そういう主観の肯定が日本の地味と武者小路氏という血肉とを濾して、今日どういうものと成って来ているか。
 そこには『白樺』がもたらした人間への愛の精神が具体的にどう消長したかも語られていて、さまざまの感想を私たちに抱かせると思う。

 このように明るく、親も子も同じように、道理には従うというきちんとした習慣で育てられれば、男の子も女の子も、おのずから動作もしっとりとし、正しいことに従う素直さをもち、互に扶け合う気風も出来ます。
 躾にも筋がとおる、ということが大切です。手足の上げおろしを細々と、やかましくいって、肝腎の性根に及ばない躾は、最悪です。
 今日男女の青年たちの或るものが、形式ばった挨拶だけは上手で、一向に公徳心も、若者らしいやさしさもない心でいるのは、形式一点ばりであった軍事的教育の害悪です。

 女の子だからと云って、女のくせに、と禁止ばかり多い育てかたをする時代でないことは、もう申すまでもないことです。
 人間を育てる根本の精神では、男の子も女の子も、同じであってよいと思います。
 女の子は、愛嬌がないときらわれる、意志がつよいと敬遠される、と、受け身にばかり育てられた日本の若い女性が、今日、どのような姿で、この古い日本の躾の欠陥を社会に示しているでしょうか。

 世界の人が、日本の謎の一つとする「日本人の笑い」というものがあります。本当に嬉しいこと、おかしいこと、楽しいことが一つもないのに、日本人はいつもぼんやりした微笑を、顔の上に漂べている、と、不思議に気味わるく思うのです。
 言葉の通じない外国人に、こちらのおだやかな気持を通じさせようとするのかもしれません。けれども、ニヤニヤしないでも、真実のこもった親切な表情で十分心もちは通じます。
 長い歴史の間、過去の日本人が、上から抑えつけられてばかりいた結果、習慣となった卑屈な愛嬌笑いは、男にも女にも、不用です。
 私たちは、そういう日本人であることを、自分に拒絶しなければならないと思います。

 ところで、躾の根本を、そういう風なものとして考え直して来たとき、新しい躾は、果して子供たちにだけ必要なものであろうかと、自分に向って質ねたい心持になりました。

 私たちは、自分のうちのものは、実によく気をつけて大切に使い、清潔に保ちます。しかし、汽車の中をよごすので有名なのは日本人です。公共建物の洗面所その他を、よくこわし、よくよごしぱなしにすることでも有名です。
 これは、わたしたち日本の国民が、すべての公共物を自分たちの計画と資力・労力で建て、それを自分たちで愉快に使う場所とする習慣がなかったからです。つまり、社会万端の施設も、民主の方法で利用されるものでなかったからでしょう。